『テレーズ・ラカン』 エミール・ゾラ [2006-01-30 22:52 by nakasky]
ブリヂストン美術館 [2006-01-20 23:36 by nakasky] 言語習得への道のり [2006-01-17 23:08 by nakasky] 『従兄ポンス』 バルザック [2006-01-16 23:23 by nakasky] 洋書2冊 [2006-01-14 16:47 by nakasky] フランス語事始め [2006-01-12 23:12 by nakasky] フランス語にBonjour [2006-01-11 23:13 by nakasky] 論文提出 [2006-01-10 23:39 by nakasky] ようやく完成 [2006-01-09 06:28 by nakasky] 新年に想う [2006-01-02 04:21 by nakasky] を読みました。本書は1867年に出版され、自然主義文学の出発点であると同時に、ゾラの出世作ともなった小説です。《ルーゴン・マッカール叢書》には含まれないみたいです。同叢書の第一作目『ルーゴン家の繁栄』が1870年なので、それ以前の初期の作品のようです。先日まではバルザックを読んでいたのですが、バルザックのあの濃密な情報量とこってり感に比べて、ゾラはすこぶるあっさりとしていて、きわめて控えめで余計なことは一切書かずに話の筋を淡々と書き綴っていますね。バルザックの後だと少し物足りない感じがしますが、おそらくはゾラにかぎらず何を読んでもそう思うでしょう。広辞苑(第5版)によれば、自然主義文学とはそもそも、 「文学で、理想化を行わず、醜悪・瑣末なものを忌まず、現実をあるがままに写しとることを本旨とする立場。19世紀末頃フランスを中心として起る。自然科学の影響を受け、人間を社会的環境と遺伝とにより因果律で決定される存在と考えた。ゾラ、ハウプトマンなどがその代表。日本には明治後期に伝わり、田山花袋、島崎藤村らが代表。」 というような意味らしいです。今回読んだ『テレーズ・ラカン』に即して考えると、「自然科学の影響を受け、人間を社会的環境と遺伝とにより因果律で決定される存在」という箇所がぴったりくるように思います。文庫の一番最後に附された序文によれば、ゾラ自身この小説を書いた目的を「私は『テレーズ・ラカン』で、性格ではなく、体質を研究しようとした」としています。読後の感想として、まさにこの一文に尽きるという感じです。 ラカン夫人の一人息子のカミーユと、子供の頃から養子になったテレーズが大きくなって結婚するのですが、生来病弱で善良かつ愚鈍なカミーユでは彼女は満足できないのですね。そこへ現れたのがローランという屈強な男でして、テレーズは彼と情事にひた走るのです。やがて二人はカミーユを殺害し、結婚しようと企てます。そして、そのとおりに実行し、やがて二人は念願かなって結婚するのですが、それと同時にカミーユを殺したことが気になり、その後はあたかも呪いをかけられたかのように苦悩の日々を送り続けることになるのです。 ざっくりいってそんな内容なのですが、一連の流れを終始貫いているのは、彼ら登場人物の意志ではなく、肉体的反応とでも申しましょうか、意志以外の要因によって突き動かされているということです。どこかの誰かがいったように、主体性に疑問を呈するのが近代的あるいは現代的な思考様式だとすれば、ゾラの小説(あるいはほぼ同時代のマルクス主義、ダーウィニズム)にその端緒を見出すことが可能なのでしょうか。しかし、『テレーズ・ラカン』の場合、主体を突き動かすのは、上記広辞苑の社会的環境もしくは遺伝というような明確なものではなく、本人の意志ではないどこか、しかしあくまでその出所は依然として本人の内部にとどまっており、つまりは肉体ということになるでしょう。 ゾラが記した序文については、初版のときには書かれておらず、再版に際して追加的に附されたようです。というのも、ゾラが『テレーズ・ラカン』を記した意図は、当時はあまりに新しすぎて多くの人々に理解されなかったらしいです。理解されないだけならまだよいのですが、多くの批評家から酷評されたらしく、それに対してゾラが半ば蛇足的に、あえて小説の趣旨の説明のために付け加えたのでした。その序文の最後が印象的です。 「ある種の批評家連中の盲目的な偏見がなければ、小説家は序文を書かざるを得ない立場に追いこまれずにすむのだ。ものごとをはっきりさせたい気持ちから、私はうかうかと序文を書いてしまった。利口な方々なら、まっ昼間に、わざわざ明かりをつけてもらわなくても、はっきりものがわかるわけだから、そういう方々には申しわけないと思う。」 てな具合ですな。筋の通った、心地の良い文章だと思います。当時のゾラは、エドゥアール・マネなどまだ理解されていなかった印象派の画家たちを必死に擁護し続けたのですね。何十年か後には彼らの芸術がきっと理解される日が到来すると信じて。と同時に文学の分野では自身が新しい試み、または様式を切り開こうとまさに格闘していた。『テレーズ・ラカン』からは芸術家が新たな表現方法を模索して必死に闘っていた、過去の時代の息吹が感じられるような気がします。 さて、次はなにを読もうかな。 本日、東京駅の八重洲中央口を出てすぐのところにあるブリヂストン美術館に行ってきました。10月から3月まで「印象派と20世紀の美術」と銘打った展示をしているようで、その真っ最中でした。常設展らしいので、展示してあったのはすべてブリヂストンか石橋さん所有のものらしいです。それにしても一企業があれだけのコレクションをよくも集めたものです。近代絵画については国立西洋美術館よりも充実しているのではないでしょうか。売店で購入した資料によると、松方コレクションなど日本人コレクターが戦前に収集して日本に持ち帰ったものを、戦後になってから石橋正二郎が購入したらしいです。というのも戦後GHQ統治下で行われた財閥解体によって資産の処分を余儀なくされ、その結果放出された絵画を、比較的被害の少なかったブリヂストンが購入したらしいのですね。
ブリヂストン美術館の目玉作品は何なのでしょうか。これは傑作なんだろうなぁと感じたのを思いつくままいくつか挙げると、モーリス・ドニの《バッカス祭》、ルノワールの《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》、モネの《睡蓮の池》、セザンヌの《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》、ピカソの《腕を組んですわるサルタンバンク》などでしょうか。それと、ここはマティスが国内で最も充実しているらしいです。全体的に良かったのですが、一番のお気に入りは《オダリスク》だったと思います、たぶん。しかし、先日のプーシキン美術館展にあったマティス3点があまりに衝撃的だったせいでしょうか、残念ながらこれぞという感じはしなかったです。 本日一番の収穫は、なんといってもピカソの《腕を組んですわるサルタンバンク》でした。これはきっと素晴らしいのではないでしょうか。もともと高名なピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツが所有していたものらしいのですが、何の因果か現在ではブリヂストン美術館の所有になっているようです。それにしてもいくらで購入したのでしょうか、気になります。私のふしあな鑑定眼によれば、おそらく数十億円はすると思うのですが。いやいや、しかしお金さえあればいくら支払ってでも欲しい気がします。某サルタンバンク氏の端正なお顔が実に鋭い筆致で描かれていました。これだけでも観に行く価値があると思います。フランス語を勉強し始めてはや一週間が経とうとしているのですが、憶えなくてはならない情報量が膨大すぎて気がめいってきています。まずは動詞の活用形、例えばfaireは、
je fais tu fais il fait nous faisons vous faites ils font といった具合に、ひとつの単語につきとりあえず6つ憶えなくてはなりません。6つというのも、さしあたって初歩的な直説法現在についてだけなので、その他にも直説法単純未来、命令法現在、接続法現在、条件法現在、直説法半過去、直説法単純過去、接続法半過去など、動詞の活用表を見ると単語ひとつにつき膨大な情報量が掲載されています。しかも不規則で活用する動詞が結構たくさんあるようなので、それらは結局のところ丸暗記するしかなさそうです。faireにしてもvousのところはfaisezとなってくれれば話は早そうな気がするのですが。 また、男性名詞と女性名詞の区別がよくわかりません。かなり恣意的な気がします。例えば、鳥を意味するoiseauは男性名詞、机を意味するtableは女性名詞などと、ひとつひとつ憶えていくしかなさそうです。さらに面倒くさそうなことには、その名詞にかかる形容詞や冠詞の類いが、名詞の性によって変形するのですね。これまた不規則に変化する不逞の輩が存在しているようで、かなりの暗記量が要求されるみたいです。 フランス語を始めてからというものの、英語が実に理解しやすい言語だとつくづく痛感させられます。"彼の机"を意味するのはhis tableで、それを複数にしたってhis tablesですよ。ところがフランス語ならそれぞれsa tableとses tablesで、単数か複数かによって所有形容詞まで変化なさるのですね。また、英語には名詞に関して男性と女性の区別がないので、実にシンプルでわかりやすそうです。もっとも、英語には英語独自のむずかしさというものはあると思うのですが(特に前置詞)、習得までに憶えなくてはならない情報量は他の欧米諸言語に比較して少ないような気がします。 さらに、フランス語を始めて以来つくづくと感じていることは、日本語ってたぶん難しいだろうなぁ、ということです。ひらがなとカタカナをそれぞれ約50個ずつ憶えるのもまずは大変だろうし(あらためて考えるとそれぞれ個別勝手な形をしています)、その後には絶望的とも思える漢字が控えていますからね。それを考えると、日本人に生まれてラッキーだったのかなとも思うのですが、仮にヨーロッパのどこかで生まれていたとしたら、おそらく日本語を勉強する動機も機会もないと思うので、あるいは特にラッキーでもないのかもしれません。 またまたバルザックを購入してしまいました。今回購入したのは『従兄ポンス』(Le Cousin Pons)であります。この藤原書店版は『あら皮』、『幻滅』上下巻に続き4冊目です。実はこれ、すでに売り切れ状態なんですね。今後重刷されることがあるのかないのか知りませんが、とりあえず今買っておかないと次はいつ手に入るかわからないので、すみやかに買いにいったわけです。もはや店頭からは絶滅寸前で、いろいろと探した結果、紀伊国屋の新宿南口店でようやく見つけました。うれしいじゃありませんか。昨日ちょうどゾラの『制作』を読み終え、今日は電車のなかでユーゴーの『死刑囚最後の日』を読み終わったので、これからさっそくポンスのヤローに取りかかりたいと思います。しかし、やることがない人間はすらすらと本を読むことができます。至福であります、ぷっふぁ。それから、ゾラの『制作』はなかなか面白かったです。印象派の画家たちによる生みの苦悩とそれが社会でなかなか受け入れられない苦悩を描いた作品です。音楽にしても絵画にしても、真に偉大な作品は同時代人になかなか理解可能ではないのですね。なぜといって、それまでには存在しなかった新しい美の価値観を提示しているからであります。既存の秩序を反復したにすぎない通俗的作品が受けるというのは、19世紀でも現在でも同じなのでしょうか。大衆の人気を博せばすなわちそれは新しくない、といって同時代人からまったく無視され続ければ精神的につらい上に生活が成り立たない。なかなかむずかしい二律背反問題のようです。といって、創造とは無縁の私にはまったく関係のない世界の話なのですが。 小説を原文で読もうと思いたって、さっそくアマゾンで注文しました。
左からSomerset Maughamの"Of Human Bondage" とHonoré de Balzacの"Père Goriot"です。モームの本は岩波文庫から『人間の絆』という題名で邦訳が出版されています。それを訳したのと同じ人が同じくモームの『月と6ペンス』も訳していて、こちらは読んでみて訳文が気に入らなかったので、この『人間の絆』についてもいっそのこと原文を購入してしまいました。しかし、日本語に比べて英語を読むのは2〜3倍の時間がかかります。なにかと大変ですが、これも訓練です。徐々に難なく読めるようになってきているのが、これ幸いです。日本の本は洋書に比べて、特に売れ筋本や古典と呼ばれる本などについて、値段が著しく高い場合が多々ありますので、語学をマスターするのは長期的な節約術として有効だと思います。続いて写真右の本ですが、いわずと知れた『ゴリオ爺さん』ですね。しかし、原文だと"Le Père Goriot"なので、本当は『ゴリオ父さん』だと思うのですが。その辺も考慮して、藤原書店版は『ペール・ゴリオ』というカタカナ表記になっているのでしょうか。それはさておき、この本はフランス語の原文だと思って購入したのですが、なかを確認してみると、どうやら英訳のようです。アマゾンでは購入に際して表紙しか確認できず、そこには訳者の名前が書かれていなかったので、てっきりフランス語だとばかり思い込んでいました。もっともフランス語で書かれていたら読めないので、英語の方が便利ではあるのですが。しかし、あくまでフランス語の勉強の一環として購入したものなので、これではダメダメです。それに、なぜわざわざ日本人の私がフランス語で書かれた本を英語で読まなくてはならないのでしょうか。合理的な理由が見つかりそうにないので、今後この本を読むことはなさそうです。 と文句ばかりつけているのですが、興味深いことを発見しました。『ゴリオ爺さん』の岩波文庫版は上下2巻構成で本文のみ計550ページくらいあるのですが、この英語版だとわずか280ページ程度しかありません。内容をパラパラと確認したところ、どうやら抄訳版ではなさそうなので、まったく同じ内容のもののようです。日本語は諸外国の言語に比べて冗長なのでしょうか。量的にちょうど倍くらいありますからね。仮に英語を読む速度が日本語の半分だとしても、同じくらいに読み終わりそうです。もっとも、ページあたりの密度が同じだと仮定すればの話なのですが。いやいやしかし、英語のほうが日本語に比べて紙面の点で資源節約的なのは間違いなさそうです。
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